体操競技を6歳から始めて、大学4年の今まで続けてきた。16年。人生のほとんどだ。
その競技生活が終わって、しばらく経った。毎日通っていた体育館に行かなくなって、朝起きる時間が変わって、そして体重計の数字が変わった。
引退して太る。競技をやっていた人なら、あるあるすぎて笑われるくらいの話だと思う。でも実際に自分の身に起きると、笑えなかった。
体重計に乗って、二度見した
久しぶりに体重計に乗ったとき、正直「壊れてる」と思った。
現役のときの体重は、自分にとってほとんど身分証みたいなものだった。何キロなら跳べる、何キロなら回れる。数字と感覚がずっと結びついていたから、それが崩れているのが、単純に気持ち悪かった。
服がきつくなるとか、鏡を見て「あれ」と思うとか、そういう変化は少しずつ来ていたはずなのに、ちゃんと見ないようにしていたんだと思う。数字を突きつけられて、やっと現実になった。
1日何時間も動いてた体が、急にゼロになる
冷静に考えれば、こうなるのは当然だった。
現役のころは、週の大半を体育館で過ごしていた。技の練習だけじゃなくて、補強も走りもストレッチもある。数時間、体をずっと動かしている生活。それが競技を終えた瞬間に、ぱたっとゼロになる。
しかも体操は、ただ動いている時間が長いだけじゃない。倒立ひとつ、跳躍ひとつに全身の力を使う。あの負荷が生活から丸ごと抜け落ちたとき、体が変わらないほうがおかしい。
でも当時の自分は、そういう理屈で自分を納得させられなかった。「なんでこんなに簡単に崩れるんだ」と思った。16年かけて作った体なのに、崩れるのはあっけなかった。
食べる量だけが、現役のまま残った
もうひとつ大きかったのが、食事だ。
競技をやっていたころは、とにかく食べていた。練習で消費するぶん、しっかり食べないと体がもたない。それが何年も続いて、完全に習慣になっていた。
引退したからといって、その習慣は勝手には消えない。動く量だけが減って、食べる量は現役のまま残る。頭では「減らしたほうがいい」とわかっていても、10年以上続けてきたリズムを変えるのは、想像していたよりずっと難しかった。
体育会あるあるだと思うけど、「たくさん食べること」は競技者にとって正しい行動だった。それが急に、正しくないことに変わる。この切り替えが、いちばん厄介だった気がする。
一番きつかったのは、体重の数字じゃなかった
太ったこと自体より、しんどかったのは別のところにある。
「体操やってました」と言うたびに、今の自分の体を見られている気がした。誰もそんなこと思ってないとわかっていても、勝手にそう感じてしまう。16年やってきたという事実が、そのまま自分へのプレッシャーになる。
そして、これを人に言いづらい。「引退して太っちゃって」と軽く言えばいいだけなのに、元競技者という肩書きが邪魔をする。同期にも言いづらい。たぶん向こうも同じことを思ってるのに、お互い言わない。
競技をやめるというのは、練習がなくなることだと思っていた。でも実際に失うのは、体を通して自分を確認する方法そのものだった。毎日の練習が「自分はまだこれができる」という証明になっていて、それがなくなると、自分の輪郭がぼやける。体重の変化は、そのぼやけがいちばん目に見える形で出てきただけだったんだと思う。
だから、太ったのは当たり前だった
今こうして書いてみると、順番に説明がつく話でしかない。
動く量が減った。食べる量は変わらなかった。生活のリズムが変わった。それだけのことだ。自分の意志が弱いとか、だらしなくなったとか、そういう話じゃない。16年間の生活が終われば、体もそれに合わせて変わる。ただそれだけ。
でも当事者のときは、そんなふうに考えられなかった。鏡を見るたびに、自分が緩んだ人間になった気がしていた。
もし今、同じように引退して体が変わって、それをうまく飲み込めずにいる人がいるなら、伝えたいのはこれだけだ。それはあなただけに起きていることじゃないし、あなたが弱いから起きていることでもない。16年やってきた事実は、体重が何キロになっても消えない。
自分はまだ、この変化とちゃんと折り合いをつけられていない。答えも出ていない。ただ、「当たり前のことが起きているだけだ」と思えるようになってから、鏡を見るのが少しだけ楽になった。

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